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天台宗松樹山慈光院・タイトル

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権現堂写真

・本尊  徳川家康公

・開眼  江戸年間

・平成17年2月改修

 標題のこの文句は、一時代をきずいたテレビドラマ『水戸黄門』の有名な決めゼリフですが、実は、当お堂の両扉に取り付けられております刻印の御紋こそ、世が江戸の時代だったら誰もがドラマのように「ははー」とひれ伏さなければならない(?)、徳川家の家紋『葵の御紋』なのです。
 徳川家康公は、菊・桐紋の下賜をことわって『三つ葉葵』の紋にこだわったとされています。理由は祖先と葵紋の深いご縁を尊重したとも、菊・桐紋では足利家や豊臣家の後塵を拝するからとも云われていますが、ともかく徳川家紋となった『葵の御紋』は、五代将軍綱吉の時代に厳しく統制管理されることとなります。葵の紋を着物につけて詐欺を働いた浪人が死罪になったという記録も残っているそうです。話は先のドラマに戻りますが、確かに懐中から御紋を出して見せただけで状況が一変するわけですから、ドラマがどれだけ史実通りかわからないことを差し引いても、『葵』のご威光のほどは間違いなかったことでしょう。では、なぜそのような『葵の御紋』を印した権現堂がここにあるのでしょうか。
 当山は天海大僧正とご縁があります。天海大僧正は江戸初期の天台宗の僧侶で家康公の知遇を受け、江戸幕府創建時に内外の政務に参画した人物として歴史の教科書にも登場しています。家康公の死後も二代秀忠三代家光に仕え、家康公を日光東照宮に改葬し当地を整備し、また、上野の寛永寺を創建するなど多方面で活躍をされた高僧であります。その天海大僧正の法弟のひとり覚盛法印が、1625年(寛永二年)に当山を開基したと伝えられており、上野の寛永寺にならって配したのが弁天堂と権現堂であるというわけなのです。
 現在のお堂の『葵の御紋』が、いつの時代に作られたものかは定かではありませんが、何千何万もの人の目にふれてきたこの徳川家の御紋が、幾年もの歳月にわたる世の移り変わりを経て、今このサイトをご覧になっている方のまさに眼前にあることを再認識した時、時代の持つ重みや厚み、あるいはご縁の不思議さというものをあらためて実感できるのではないでしょうか。

(※御朱印はありません)







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